CONCEPT

箔屋町の歴史History of Hakuyacho

箔屋町ビルの名称は、江戸時代から昭和初期まで使用された旧町名に由来しています。
17世紀末、江戸幕府は金銀箔類の製造販売を統制する箔座をこの地に設置しました。これに伴い箔打職人が多く居住したことから、この町は箔屋町と呼ばれるようになりました。箔座はやがて廃止されますが、その役割は金座と銀座へと移行しました。銀座は言わずと知れた大商業地へと発展、一方の金座は現存しないものの、その跡地は日本銀行本店となっています。
こうして、箔屋町は江戸から明治、大正、昭和へと引き継がれ、関東大震災後の都市復興計画に伴い、1928年(昭和3年)にその役割を終えるまで、永く親しまれてきました。
箔屋町ビルという命名には、かつての町名と同様にこの地において時代を超えた普遍的な存在でありたいという、思いが込められています。

江戸切絵図( 築地八町堀日本橋南之図, 部分)
江戸切絵図( 築地八町堀日本橋南之図, 部分)

日本最大級の”美術の街”Street of Art and Antiques

箔屋町ビルの正面は、東仲通りに接しています。この通りはまたの名を骨董通りとも云い、日本橋から京橋にかけての道沿いとその周辺には、古美術商を始め数々の美術専門店が集まることで広く知られています。
この街がいつ頃から美術店で賑わうようになったのかは定かではありませんが、明治時代の後期にはすでに複数の骨董商、道具商が軒を連ねていたようです。そして現在、その総数は実に150店におよぶとされ、国内最大級の規模を誇っています。
このような美術と街との深い縁を背景に、箔屋町ビルは当初より美術店の入居を前提として計画されました。

計画ⅠPlanningⅠ

このビルは、東京・日本橋の裏通りに建つテナントビルで、敷地は間口5m、奥行き15mの角地である。

構造に扁平ラーメン構造を採用し、柱型の室内への張り出しと階高を抑え、狭小な敷地に効率のよい室内空間を確保している。新建築 1988年12月号

撮影 門馬金昭, 1987
撮影 門馬金昭, 1987

計画ⅡPlanningⅡ

日本橋の角地に建つ小さなテナントビルである。敷地の東側の道路—通称仲通り—は、京橋から日本橋にかけて、中央通りと平行に南北に伸びるやや細い通りである。北側の道路は、それと中央通りを繋ぐさらに細い通りである。

建物の東側立面は、内部の層構造を反映して、2層分の基部と、コンクリート打放しのフレーム的な中層部・最上部を持ち、正面性が与えられている。北側立面は、一段低い基部と、その上部のコンクリート打放し面による均質で平坦な壁面をなしている。性格の異なるふたつの通りに対して、それぞれの立面が対応し、その差異の交差が、角の表情を形成している。設計者 廣田豊(新建築 1988年12月号)

設計者 廣田豊(新建築 1988年12月号)
撮影 門馬金昭, 1987

箔屋町ビル設計者 廣田豊Architect Yutaka Hirota

箔屋町ビルは、建築家 廣田豊(1951-2013)により設計されました。
廣田豊が主宰した、スパティウム/建築都市設計のWEBアーカイブをご案内します。

『神宮前の家』撮影 門馬金昭
『神宮前の家』/撮影 門馬金昭